有史以前
有史以前のパラオについてはよくわかっていないが、わずかに残る遺跡などを研究した結果、かなり古くから人が住んでいたと推定されている。
スペインの植民地
16世紀頃より、海運の進歩の結果ミクロネシア諸島にもヨーロッパ人が訪れるようになり、パラオも1885年にスペインの植民地下に入った。天然痘などが持ち込まれ、ヨーロッパとの接触の結果パラオの人口は90%程度減少したとされる。
ドイツの植民地
その後1899年にスペインはパラオをドイツに売却。以降ドイツの植民地になった。ドイツはパラオでココナッツ栽培等を初めとする産業の振興を行った。
1914年に第一次世界大戦が開始されると、ドイツに対して宣戦を布告した日本が帝国海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領した。
日本の委任信託領
第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本(大日本帝国)の委任統治領になった。コロールには南洋庁の支庁を置かれ、パラオは周辺諸島における植民地統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住(最盛期には2万5千人ほどの日本人が居住)した。このため、学校や病院・道路など各種インフラの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていった。また日本統治の開始にともない日本語による学校教育が先住民に対しても行われるようになった。
日本は1933年に国際連盟から脱退したが、統治委任はパリ講和会議によるもの主張して、そのまま委任統治を続けた。しかし、委任統治領に軍事施設を建設してはならない規則は国際連盟による取り決めであるため、脱退後は各地に海軍の関連施設を建設した。
第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まると、コロールは日本海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となった。そのため、西方のフィリピン戦線の状況と連動してアメリカ軍の攻撃対象となり、1944年にはペリリューの戦いなどで日米両軍に多くの戦死者を出した。なお、ペリリュー島の戦いではパラオ民間人に一人の死者も出なかったことは特筆に価する。
アメリカの信託統治
戦争終結後、国際連合の委託をうけアメリカ合衆国はパラオを信託統治下においた。1947年のことである。この後アメリカは膨大な額の援助を行い、また英語による学校教育を行うなどした。
1981年、パラオは自治政府を発足させ憲法制定を行った。しかし、その憲法には領土内への核兵器の持ち込みを禁止する非核条項が含まれていたため、海軍艦船の立ち寄りが事実上不可能にされるアメリカから強い批判を受けた。信託統治を終了させるためにアメリカとの間で1982年に締結された自由連合協定は、1983年以降の7回の住民投票でいずれも75%以上の賛成を得られず、承認されなかった。その中で、大統領の暗殺や自殺、ストライキや爆破事件などが多発し、政情が不安定になった。
独立
しかし、1992年の住民投票で憲法内の非核条項を凍結することが決まり、1993年の住民投票で自由連合協定が承認された。これにより、ようやく1994年10月1日に独立し、同年に国際連合へも加盟した。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』パラオ